原子爆弾とは

提供: 有限会社 工房 知の匠

文責: 技術顧問 大場 充

更新: 2023年12月9日

目的とねらい

今日、2019年8月9日は、長崎市に新しいプルトニウム型原子爆弾が投下されてから74年間が経過した特別な日です。この爆弾は、7月中旬にアメリカ合衆国のニューメキシコ州で、世界最初の原爆実験が成功して、本当の意味での兵器としての原爆が完成してから、わずか数週間後でした。それは、実際に人間、それも武装していない長崎市民を標的にした戦略爆撃に使われたという、人間の罪深い一面をさらけ出させた、人類史上最も凄惨(せいさん)な事件のひとつを起こしたものでした。一回の爆撃で死んだ被害者の数でいえば、同じ年の3月10日の夜から11日の朝にかけて、爆撃機B-29から落とされた無数の焼夷(しょうい)弾(ナパーム弾とも呼ばれます)によって焼け死んだ人の数には及びません。しかし、たった1機のB-29が運んできた1発の爆弾で、長崎市全体が焦土と化し、その後長期にわたって、生き延びられた人々をも、後遺症で悩ませたという意味で、人類史に全く新しい時代をもたらしました。

その数日前の8月6日の朝、米軍は広島市に初歩的なウラン型原子爆弾を投下し、その後の数日間を含めて、ほぼ10万人の犠牲者を出していました。その意味でも、この長崎市への2発目の原爆の投下に、軍事的な意味は認められるのでしょうか。その意味は、対日本軍との戦闘を終わらせるためというよりも、米国の強大な軍事力を世界の各国に見せつけるための政治的なデモンストレーションであったのではないかと、疑われます。もしそうであれば、戦時とは言え、そのような行為を数多くの市民である人間の死を犠牲にして、行うことが許されるのでしょうか。このことが、この議論における主たるテーマです。

著者は、1994年4月に広島市が設立した大学に赴任(ふにん)して、1995年の原爆投下半世紀後の原爆祈念の日に合わせ、広島の多くの市民の協力を得て作成した英語版ホームページ、a-bomb WWW Museumの編集時に収集した情報を骨格として、その後、そのホームページに寄せられた海外からのコメントや情報を整理し、今回、私の知っている原爆開発の歴史と、原爆投下前後の史実についてまとめてみます。この議論が、これからの世界の平和につながることを心から願っています。

2023年11月、この記事を見直し、文章に手を加え始めました。読み直すと、誤字や年号の誤り、表現の問題など、修正すべき部分が、次々と見つかっております。それらを修正しながら作業を進めております。また、日本の昭和初期から第2次世界大戦終結までの歴史に関しては、歴史の教科書・参考資料に基づいていることから、戦争用語が多く、現代の若い人々には、聞きなれない言葉が多く、もう少し平易な表現に変えてゆくことを、考えています。

2023年12月1日 大場 充。

目次

この記事の構成は、以下の通りです。

第1章 はじめに
戦略爆撃の歴史的な背景
(2023年11月21日更新)

第2章 原爆開発
何から始まったのか
(2023年1月14日更新)
ナチス・ドイツの原子爆弾開発
(2023年1月14日更新)
チューブ・アロイズ計画
(2023年1月14日更新)
マンハッタン計画
(2023年1月15日更新)
日本の原子爆弾開発
(2023年1月15日更新)

第3章 原爆投下
ヨーロッパにおけるナチス・ドイツの戦争
(2023年11月29日更新)
アジア太平洋における日本の戦争(1) 〜満州事変
(2023年11月29日更新)
アジア太平洋における日本の戦争(2) 〜日中戦争
(2023年11月30日更新)
アジア太平洋における日本の戦争(3) 〜太平洋戦争
(2023年11月30日更新)
原爆実験とポツダム宣言
(2023年11月30日更新)

第4章 なぜ原爆は落とされたのか
米国における議論
(2023年12月2日更新)
昭和天皇と日本政府首脳達との議論
(2023年12月3日更新)
トルーマン大統領のメモと声明から読み取れること
(2023年12月2日更新)

第5章 おわりに
原子爆弾によって変わった世界
(2023年12月3日更新)
我々が学ぶべきこと
(2023年12月9日更新)